2005年07月12日

生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・

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今日は再び特攻の叔父の話をご紹介します。
前回初めてのエントリーでは思いがけず大きな反応があり、私の方が少しびっくりしました。
読んで楽しいお話では決してありませんので、一体どのように受け止めて頂けるのやら、正直おっかなびっくりのエントリーだったのですが。
私の文章の足らざる所は、天国の叔父が真実の力を持って後押ししてくれたのでしょう。
中には涙が出たと仰ってくださる方もあり、やはり思い切って書いて良かったとホッとしています。
ありがとうございます。

少し気を良くしました所で、特攻の叔父さんの話を早速書き綴りたいと思います。
祖父母からの聞き伝えのみ、と言っても子供の頃からの積み重ねがありますので、全部のお話を書き終えるには、エントリー4〜5回くらいは多分必要になろうかと思います。
素人の駄文ですみませんが、よろしければお付き合いくださいませね。
我が故郷千葉のお話なので所々千葉弁が出ますことをご承知おきの程を。
ちゃんとカッコ書きで注釈つけますので、付いて来て下さいますように・・・<(_ _)>

本日はまず順序良く彼の生い立ちからご紹介します。
彼は大正14年、千葉県のある農家に5人きょうだいの末っ子として生まれました。
本当は年子でもうひとり下に男の子がいたのですが、こちらは生まれてまもなく早世しております。
男女の内訳は男・女・女・女・男。
一番上の惣領息子が私の祖父、末っ子の男の子がこれからお話しする特攻の叔父さんです。
私の祖父は大正元年の生まれですので歳の差14歳。
祖父にとっては初めて生まれた男の兄弟でもあり、この弟をとても可愛がっておりました。
また、かなり歳の差があることで自分の弟というよりも半分息子のように思っていた節もあります。

叔父さんの話でまず特筆しなければならないのは、非常に頭の良い人だったということです。
といっても叔父さんが家で教科書を開いて勉強する所など、祖父は一度も見たことがないそうです。
学校から帰ると土間から座敷へカバンをぶん投げて、ぷいっと外へ遊びに行ってしまう。
あまりにも勉強をしなさ過ぎるので、祖父は弟の将来を大変心配したそうです。
農家と言っても(一応自作農でしたが)生活レベルは食べるのが精一杯といった貧しい暮らしでした。
近所の火事の貰い火で母屋と蔵を全焼すると言う被害を受けたこともあり、当時の生活にゆとりはなかったのです。
大百姓ならば田畑を分けて分家に出すと言うことも出来ますが、生家にそこまでの余力はない。
次男坊の叔父が自立するにはどこかへ勤めねばならず、そのためにも勉強の出来ない馬鹿では困る。

弟の行く末を案じた祖父は、ある日小学校の担任の元へ弟の様子を聞きに行ったんだそうです。
で、担任の先生が言うには、成績は常に学年トップであること。
試験をしても持ち時間の半分ほどで答案を書き上げてしまい、さっさと教壇に提出すると、ひとり校庭に出て口笛を吹きながら遊んでいること。
祖父の心配は全く杞憂だったわけです。
余談ですが、この叔父さんの同級生だった人がふたり(TさんとEさん 二人とも女性)後に小学校と中学校の先生になっていて、またこの二人が揃いも揃って母の恩師でもあるのです。
その二人が何かと言うと、「あなたの叔父さんはとても優秀な人だった」と誉めそやすので、勉強のあまり得意でなかった母は、優秀すぎる叔父さんといちいち比べられるのがとても嫌だったといまだにこぼしております。
この同級生のTさんと言う人は、後ほど叔父さんのロマンスを語るときに再登場しますので、ちょっとどこかに覚えて置いてくださいね。

これほど勉強の出来る人であれば、普通は中学へ進学する所なのでしょうが、前述したとおり家計が余り余裕のある家ではなかったので進学はしませんでした。
ただ、中学の代わりに高等小学校へは行ったんじゃないか?とか。
当時の生家のあたりでは中学へ行くほど余裕の無い家の子供でも、もう少し勉強をしたい人の為に一種の私塾のような物がお寺で開かれており、そこへ通ったんじゃないか?とも言われております。
しかしこれも今となっては確かめようが無い。
こういうところは本当にもっと早くきちんと聞いて置くべきだったと、本当に後悔をしています。

両親も祖父も、本当は何としてでも中学へ進学させてやりたかったのは山々だったと思います。
とにかくずば抜けて優秀だったのだし、本人も事情が許せば中学へ進み、きっともっと勉強をしたかったことだろうと思うのです。
それを思うと、貧乏だったのは本当にやるせない。
火事で焼け出される前は、そこそこゆとりのある暮らしをしていたんだそうです。
家柄も地元の大地主の分家筋にあたる家で、それなりの家格はありました。
火事で焼け出されなければ、叔父も中学進学くらいは普通に出来ていたはずなのですが。

過去を振り返り、ればたらの話をしても仕方が無いのですがね。
もしも叔父が無事に中学への進学を果たしていたら、あるいは予科練へ進むことも無く、全く違った人生を歩んだのかも知れません。
優秀だったので奨学金を貰って旧制高校から大学へと進学していたかもしれない。
そうであれば予科練から特攻へ、と言う道は取らずに済んだのかも?などと思うと、人生のあやの不思議さ加減を思わざるを得ないのですが。

いずれにしても学歴は小学校卒。
これで良くも並み居る中卒者を押しのけて予科練、主席で合格した物だと思っております。
詳しいことは知りませんが、予科練の試験はそれなりに難しい物だと聞いておりますので。
どうして叔父が予科練を受けようと思ったのか?
これも今は確かめようがありません。
予科練は当時の少年たちの憧れだったと聞きます。
叔父もご他聞に漏れず、予科練に憧れ愛国心に燃えて志願をしたのでしょうか?

しかし叔父さんもやはり人の子です。
いくら勉強が出来ても運動の方はあまり得意ではなかったらしい。
勉強も出来て運動も出来て・・・ではあまりにもカッコ良すぎ。
身内でも嫉妬しますョ。
ただ、相撲はめっぽう強かったようですね。
後でご説明しますが当時としてはとても体格の良かった人でしたし、家が農家で力仕事には慣れていたせいもあったのでしょうが。

体格はずば抜けて良かったそうです。
母方の血筋は体格の良い人が多い。
私もどちらかと言えば大柄な方ですが、私の母もその年代にしては長身の方、大正元年生まれの祖父も170に近いくらいの身長は軽くありましたから、その世代の人にしては結構大柄でした。
そんな大柄ぞろいの家系の中でも、叔父さんはずば抜けて大きい人でした。
鴨居に頭がぶつかりそうなのでそこを通る時はいちいち首を傾けていたと言いますから、推定でも最低180センチ程はあったことになります。
それもただひょろっと高いのじゃなく、幅もがっちりあるんですね。
太ってて大きいのではなく、骨格ががっちりしていて大きいと言う感じ。
丈も幅もあるタイプなんです。
何しろ幼い母がこの叔父さんに高い高いをしてもらうと、天井の羽目板に手が届きそうだったと言うのですから、どのくらい体が大きい人だったかは想像して頂けるのではないでしょうか?

この体格の良さではちょっとした笑い話があるんですね。
予科練に受かって入隊した後、あまりにも体格が良すぎて体に合う軍服が無かったんだそうです。
仕方が無いのでコックさんが着る白衣を少し手直しして、しばらく間に合わせに着ていたんだそうですが。
この事を叔父は私の祖父にこんなふうに言ってこぼしたそうです。
「あんちゃん、あんまり体がいっけぇ(大きい)のも考げぇもんだ、軍隊さ行っても着るもんがねぇ(無い)」

体が大きいくらいですから、食の方もとても良かったそうです。
お腹が空くと土間の入り口までやってきて、中で台所仕事をしている私の祖母に向かって、
「○○ちゃん、腹減った、むすびこしらえておくれ!」
と頼むんだそうです。
そこで祖母がおむすびを握りだすと、「もっといっけく!もっといっけく!(もっと大きく!もっと大きく!)」とリクエストが入ります。
でおむすびはどんどん大きな握り飯になっていくのです。
当時のことですから、おむすびと言っても今のようにツナマヨなんて洒落た具もありませんし、せいぜい中身は梅干で、塩をまぶすか味噌を塗るかぐらいの素朴な物。
叔父さんはニコニコ顔でそれをぺろりと平らげると、また外へ遊びに行くんだそうな。
後に祖母はこのエピソードを私に何度も語って聞かせてくれました。
祖母曰く、
「毎日のようとサッカーボールのようないっけぇむすびむすばされて、よういな往生したゎ(毎日のようにサッカーボールのように大きなおむすびを握らされてとても大変だった)」

ん?サッカーボールのようなおむすびってどんなおむすびなんだろ???
改めて母に確かめた所、実際は赤ん坊の頭ほどのむすびだったとの話。
まぁ赤ん坊の頭でも十分に大きいけど、ば〜ちゃん、サッカーボールは少し話を大きくし過ぎだって。(笑)
でも祖母は、往生した往生したとこぼしながらも、実に楽しそうにこの思い出話を語るのですね。
私の祖父母は、実はいとこ同士の結婚です。
ですから本来兄嫁に当たるはずの祖母なのですが、叔父から見れば兄嫁である前に従姉妹のお姉さんでもあるわけで。
そういう気安さも手伝ってか、お嫁に来てからも祖母のことをちゃん付けの名前で呼んでいたし、祖母の方もこの義理の弟をやはりちゃん付けで呼び、とても可愛がっていたようです。

叔父はとても子供好きな一面もありました。
親戚の子供(男の子)を連れて成田参り(成田山・新勝寺の事)に行った事もあります。
叔父さん、あの当時はまだ十代の少年です。
今時の高校生が幼い子供を連れて成田参りなんかしませんよね?
恥ずかしくって・・・でもそんなことは一切お構いなしなんです。
恥ずかしいも格好悪いも一切無し。

でもこの成田参りに母は同行出来なかったんですね。
初めは母も連れて行くという話だったんですけど、まだ幼すぎて連れて歩くにはさすがに億劫だったのか?
女の子を連れて歩くにはさすがに少し気恥ずかしさがあったのか?
二人も一度に連れて歩くのは大変だと思ったのか?
何があったのかは分かりませんが、とにかく母は置いてけぼりを食ってしまった・・・
母はこの時成田参りに連れて行ってもらえなかったことがよほど悔しかったらしく、今でも真顔になってぼやきます。
私も叔父さんと一緒に成田へ行きたかったなぁ・・・と。

冒頭にご紹介した写真は、その成田参りのとき叔父が母へのお土産に買ってきてくれたおもちゃのハンドバッグです。
戦時中の事ですから、決して良い品物とは言い難い。
時間の経過と共に色も黒ずみ、事情を知らぬ人が見れば単なるガラクタに過ぎない代物です。
けれど先日ご紹介した葉書同様、母にとっては亡き叔父を偲ぶ大切な形見なのです。
60を過ぎたいい大人が、未だに幼い子供の頃の思い出の品を大切に大切に保管している事を、どうかご想像ください。
母の心の中で、今は亡き叔父がどれだけ大きな存在を占めているかを。

本日最後に母子のエピソードをひとつご紹介します。
叔父が岩国の予科練に入隊したあと、母親と姉3人が叔父を訪ねて千葉から岩国まで、一度面会に行ったことがあるのだそうです。
叔父は母親が年をとってからの子供でしたので、彼が予科練に入隊した頃は、母親はすでに腰が曲がり杖をつかなければ歩けない体でした。
今のように交通事情の良くないあの当時、千葉から山口県の岩国までどのくらい時間がかかったのか?
母親にとっては、まだまだ可愛い盛りの末息子。
わずか16歳で家を離れた息子に一目会いたいという母の気持ちは、ひとしおだったのでしょう。
汽車を乗り継ぎ乗り継ぎ、杖を頼りに岩国まで尋ねてきた老いた母の姿を見て、叔父は男泣きに泣いたんだそうです。
「まさかお袋まで会いに来てくれるとは思わなかった」
と言って。

はるばる岩国まで面会に来てくれた老いた母の姿を見て泣いたと言う叔父。
それを聞いて私は思わず、あぁ血筋だなぁと思ったものです。
私の祖父も情にもろい所があり、ちょっとしたことでもすぐ感激してオイオイと人目を憚らずに泣くタイプ。
さすがは兄弟、血は争えないなぁと。(笑)
叔父は当時まだ16〜17の少年、今の高校生の年頃です。
まだまだ無邪気で心優しい少年だった叔父。
久々の再会を、叔父と年老いた母はどんな思いで過ごしたのでしょうか?
千葉の実家には、岩国の錦帯橋の前で母と姉と共に写した軍服姿の叔父の写真が今も残っています。

参考リンク 
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
posted by ぴろん at 16:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月06日

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・

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3日ぶりのエントリーです。
当Blogの看板には「時事問題から与太話まで」と銘打っておきながら、Blog開設3ヶ月を過ぎてもひとつも与太話を上げていないんですね。(笑)
お休み明けの再開を良いきっかけと考え、今日はその初与太話をエントリーしたいと思います。
実は私、拉致問題の他にもうひとつ、このBlogを立ち上げようと思った理由があるんです。
拉致問題が忙しすぎて中々こちらを取り上げる暇が無かったのですが、エントリー再開を良いきっかけと思いまして、今日はもうひとつの理由の方をご紹介することにします。

私の身内には一人の英霊がいます。
しかもその英霊は、神風特別攻撃隊の隊員でした。
彼は今から60年前の昭和20年5月4日沖縄戦で、みごと敵艦の撃沈に成功し戦死したそうです。
享年21歳。
彼は私の母方の祖父の弟、続き柄で言うと大叔父に当たる人です。
でも物心ついたときから、母に習って、「叔父さん」または「特攻の叔父さん」と言い習わしてきましたので、ここでもそういう呼び方をしたいと思います。

私は物心ついた幼い子供の頃から、何度となく祖父母に特攻の叔父さんの話を聞いて育ちました。
ですから、変な話、子供の頃は世の戦死者の中に特攻で亡くなった人は数え切れないほど大勢いるのだと、心から思い込んでもおりました。
けれど大人になって戦争について色々学ぶうち、実は自分が聞かされてきた特攻による戦死者は、大勢の戦死者の中でもレアケースであることを知りました。

私はプライベートの時でもこの特攻の叔父さんについて、親しい友人にも一度も話をした事がありません。
別に隠し立てをしたとかそういうのじゃなく、特別話す機会がなかっただけのことですが。
けれど私は今、無性にこの叔父のことについて語りたいと感じています。
理由は色々ありますが、一番の理由は彼の辞世の歌、

  身はたとへ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心をば

これに触発された部分が大きい、ということでしょうか?

叔父さんはもし存命ならば今年80歳のお爺ちゃんでした。
私は生きている叔父と存分に話をし触れ合いを持ち、彼からきっと様々な影響を受けて自分の人生を歩んだはずです。
いうまでもなく、私は彼の特攻死によって護られた側の子孫です。
血のつながった肉親である以上、彼の存在は死んでも尚、私と言う存在に何かしらの影響を与える物なのでしょう。
である以上このまま叔父さんの事を誰にも語らないまま無為に時間を過ごすことは、なんだか叔父に対してとても申し訳ないことのように思えてきたのですね。

もしも戦争を生き伸びていたなら、彼はその後どんな人生を歩んだのか?
歩みたかったのか?
生への執着を振り切り、国と家族を護るために出撃して行った彼が、この世に残し置きたかった心とは何なのか?
この歌を思うたびに、叔父の心の内をふと考える私がいます。
私に叔父のことを話してくれた祖父母は、すでにこの世の人ではなくなりました。
唯一生身の叔父を知る私の母も、60の坂をとっくに越しております。
今私が何らかの手段で語らなければ、ひとりの青年の特攻死を世に知らしめることは出来なくなってしまう。
彼の生きた証を、例えどんなにささやかな手段であっても世に伝えたい。
ひとりでも多くの人に、私が聞いてきた特攻の叔父さんの話の数々をご紹介し、心の隅に留め置いてもらいたい。
戦後60年の今年はその良い機会ではないだろうか?
そんな思いでこのエントリーを書き綴りたいと思います。

私の祖父は5人兄弟の一番年上の長男、特攻の叔父さんは次男で末っ子です。
本来、特攻の叔父さんと私の母は「叔父と姪の関係」なのですが、特攻の叔父さんと私の祖父の歳の差は14歳、姪である私の母との歳の違いは13歳。
彼にしてみれば私の母のことを姪と言うよりも、「ちょっと歳の開いた兄と妹」と言った感じで捉えていたかもしれません。
事実子供の頃、母は叔父さんのことを「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいたそうですし。

その叔父は16歳の時岩国にあった予科練に入隊しました。
祖父から聞いた話では、なんでも予科練の試験、トップ合格だったとか?
そもそも叔父さんは家庭の事情で小学校しか出ていませんでした。
本人がある日予科練を受けると言い出した時、学のないお前が予科練に受かるはず無いだろうと、家族の誰もが本気にしてなかったそうです。
ところが実際は事前の予測を大きく裏切り、並み居る中卒者を押しのけて主席で合格しちゃったらしいのですね。
試験官から「○○、お前が主席で合格した。だからお前が代表で免状を受け取れ」と言われたそうでして。
出来の良かった弟が自慢だったのか、この話は祖父から何度も何度も聞かされましたっけ・・・

母の記憶では、合格発表を受けた日、ヒューヒューと口笛を吹きながら帰宅し、家の中に入るなり家族に向かって「受かっちゃった♪」とひょうひょうと言ってのけたらしい。
特別ガリ勉タイプだったわけでもなかったそうですが、頭はたいそう切れる人だった。
いいなぁ・・・どうして私はこの叔父さんのDNAを引き継がなかったのか・・・?
もそっとお勉強が出来れば、私の人生も今とは大分違う物になってたはず・・・?(笑)

さて本日ご紹介するエピソードは叔父と姪とのあいだでやり取りされた葉書のお話です。
家族思いで子供好き。
その彼が軍人として台湾や三重県の鈴鹿などを転々とする中で、赴任地から故郷の姪に宛てて書き送った葉書が今も残っています。
それが冒頭の写真でご紹介した2枚の葉書。
私の母が、叔父さんの形見として今日まで大切に保存してきた物です。
まずはこれをご紹介しましょう。

一枚目、写真右の絵が描いてあるものは昭和18年10月19日の消印が押されています。
三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊からの投函です。
これを受け取った時の母は誕生日前だったのでまだ5歳。
幼い子供でも読めるよう、カタカナで書かれています。
全文をご紹介しますので、お読みください。
 
  ○○チャンオゲンキデセウネ
  モウオバアチャンノオッパイハノマナイデセウ
  モウライネンハガッコウヘイクンデスノモネ
  コノクライノヂハヨメルデセウネ
  ヨメナケレバオトウチャンニデモヨンデモラヒナサイ
  ニイチャンモ ヂキニコノエノヨウニ ヒコウキニノッテアメリカヘ
  バクゲキニイキマス
  ○○チャンモ ヤンチャハイワナイデ ハヤクオホキクナッテ 
  オコメヲタクサンツクッテクダサイネ
  オカラダヲゴタイセツニ
  サヨウナラ

2枚目、写真左側。
これは丁度一年後の昭和19年10月18日消印。
同じく三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊から投函されています。

  ○チャン
  マイニチマイニチ オゲンキデガッコウニイッテイルコトデセウネ
  モウバアチャンノオッパイハモウノマナイコトデセウネ
  ○○○チャンノオモリクライハシテイルコトデセウ
  ニイサンモマイニチマイニチヒコウキニノッテ 
  オクニノタメニハタライテイマス
  ヒコウキハトテモノリココチガヨイデスヨ
  ○チャンモハヤクオホキクナッテ オクニノタメニハタラヒテクダサイ
  オテガミチョウダイネ
  サムイカラカゼヲヒカナイヨウニ

6人兄弟の総領娘で次々と下に妹や弟が生まれたため、母は大変なおばあちゃん子だったのです。
母親に甘える暇が無かった分、おばあちゃんの萎びたおっぱいにぶら下がって一種のごまかし・甘ったれをしていたらしい。
これは大人になってからも冷やかしの種になるくらいの公然の話題だったので、特攻の叔父さんにもさぞかし印象深い出来事だったのでしょう。
2枚の葉書ともにおっぱいの話題が書き添えてあるのですから。
しかし学校へ上がってからは母はおばあちゃんのおっぱいをキッパリと卒業したそうです。
母の名誉のため、申し添えます。(笑)

母はこの葉書を受け取ってすぐにそれぞれ返事を書いたと言います。
就学前の最初の返事は、文字が曲がらぬよう、父親に鉛筆で原稿用紙のように升目を引いてもらい、後ろから鉛筆を持つ手を父親に支えてもらいながら、返事を書いたそうです。
内容は忘れてしまったけど、2度とも間違いなく返事を書いた記憶があると言っております。
しかし叔父の戦死後、遺品の中に母の書いた葉書はありませんでした。
母が言うにはおそらく出撃の際、叔父さんが自分の胸に抱いて往ったのだろうと。
この事実は私の胸に深く深く突き刺さります。
叔父さんの出撃には当然当時まだ幼かった私の母を護るため、という大義名分も含まれるのですから。

特攻は言うまでも無く、骨のひとかけらさえ故郷に帰ることの出来ない壮絶な攻撃です。
人一倍の親思い・家族思い、ユーモアがあり友達も多く、朗らかで人懐っこい性格の叔父が、大好きな故郷へ二度と帰ることも出来ず、たった独り海の底に沈まねばならないのです。
出撃の命令を受けた時の彼の心中はどのような物だったのか?
一体どうやって自分の心を納得させて、出撃に臨んだのだろうか?
最期の瞬間、いったい叔父さんは何を叫んで突撃したのだろう?
折に触れて、私は考えざるを得ないのです。

たとえ幼い子供に書き送る葉書であっても、当然軍による検閲があるわけですから、葉書の文面も当たり障りの無いことしか書けません。
しかし、葉書の最後に書かれた「オテガミチョウダイネ」の一言が、今になって妙に胸に引っかかるんですね。
もしかしたら無意識のうちに、いざ出撃の時に備えて故郷の温もりを少しでも多く、と言う気持ちから姪っ子からの返事を求めたのだろうか?などといった余計なことまでついつい考えてしまう・・・
祖父もそんな弟の気持ちを思って、まだまだ幼い娘の手をとって拙い返事を書かせたのだろうか?と思ってもみたり。

特に2枚目の葉書を出した頃は戦局もかなり厳しさを増していた頃。
事実この翌年の5月に彼は沖縄で戦死するわけですから。
単に故郷懐かしさ・姪っ子可愛さだけで彼はこの葉書を書いたのだろうか?
叔父さんがいつごろ特攻に志願し、その決意を家族に伝えたのか?
今となっては知る由もありません。
祖父母が健在のうちにもっときちんと聞いておけば良かったと、今になって悔やんでおりますが。

ともかくも、二度とわが身が故郷に帰れぬ代わりに、叔父は故郷を偲ぶよすがとして母の葉書を連れて往きました。
おそらく母の葉書だけではなかったはずです。
家族の写真や友人からの手紙など、故郷の思い出につながる物は何から何まで、胸に抱いて出撃したに違いありません。
まだまだ幼かった姪の葉書までも胸に抱いて、出撃する彼の心中はどのような物だったのだろうか?と。
私は時々彼の心中に思いを馳せます。

  「あんちゃんがお前たちを護ってやるぞ!」
  「しっかり勉強して立派な大人になれ!」
  「親父やお袋のことは頼んだぞ!」

そんな声が、茶色く変色したこの葉書の向こう側から今も聞こえてくるような気がします。
母はこの叔父さんのことが大好きだったんだそうです。
今でも母は叔父さんの話になると、大きな涙をぽろぽろこぼしながら号泣してしまいます。
そして口癖のように
「特攻の叔父さんに顔向け出来ないような、恥ずかしい生き方は出来ない」
と言います。
長いこと私は母のこの言葉を、「これは母の人生訓のような物」と他人事のように受け止めてきました。
特攻と聞いてもただ何となく「あぁ大変な死に方をしたのだな?」と思うくらいで、それ以上の実感はありませんでした。

でも拉致問題に関心を持ち日本の近代史を勉強して、「国とは何か?真の愛国心とは何か?」と真剣に考え始めた時、突然叔父さんの存在がまるで千貫の重しのように私の上にのしかかってきたのです。
特攻によって護られたのは母だけじゃない。
私も叔父さんの壮絶な死によって護られた側の人間じゃないのか?と、自問自答するようになったのです。

私は戦後の生まれですから、当然この叔父さんとの面識はありません。
でも幼い頃から色々なエピソードを祖父母や母から聞かされて育ちましたので、私の中では相当にリアリティーを持って存在しているのですね。
その叔父さんの壮絶な死を具体的にイメージし始めた時、母の思いがそのまま私の思いへと変わるのにそう時間はかかりませんでした。
私もあの世に逝ったとき、彼に合わせる顔が無くなるような生き方はしたくありません。
少々しんどいことがあっても、叔父さんの壮絶な死よりははるかにましじゃないか!と思えば力が湧いてきます。
そして叔父さんが命をかけて護った日本を、もっと誇りの持てる国にしなければと強く感じてもいます。

そうじゃないと私があの世に逝ったとき、叔父さんから
「なんだこのアマ!俺が命をかけて護った日本を滅茶苦茶な国にしやがって!」
と怒られてしまう・・・(^^ゞ
ちなみに「アマ」と言うのは女性に対する罵倒の言葉。
男だったら「この野郎!」と言う所を、女性が相手だと「このアマ!」になるのです。
これは私の住む千葉のお国言葉・・・
ま、実際の所、彼はとても心の優しい人だったそうですから、いきなり怒鳴りつけるようなことはしないだろうとは思うんですけどね。
それにしても沖縄の冷たい海の底で、私の叔父さんは今の日本の姿をどんな思いで見つめているのか?

今年の5月4日は全国的に晴れました。
清々しい5月の空の下、世はのどかにゴールデンウィーク。
日本全国行楽日和でした。
沖縄の海でもマリンスポーツを楽しんだ若者がたくさんいたことでしょう。
でも60年前の同じ日に同じ沖縄の海でひとりの若者が、国を家族を護るため決死の思いで突撃し、敵艦もろとも木っ端微塵に果てたのです。
そういう時代がホンの少し前に確かにあったことを、時には思い返して欲しい。
今も沖縄の海の底で幼い姪の葉書を読みながら、寂しさを紛らわしている若者がいることを心の隅にでも留めて欲しい。
5月4日の青い空を見つめながら、私はふとそんなことを考えました。

特攻の叔父さん、享年21歳。
生きていれば今年80歳のお爺さんです。
私は生きているこの叔父に、ぜひ一目会ってお話をしてみたかったという気持ちがあるんです。
どこに行ってもすぐに親しい友達を作る名人だったという叔父さんと、きっと良いお友達になれたんじゃないか?と思うのですね。
でもそれはかなわぬ夢。
せめて私があの世とやらに逝ったとき、胸を張って「叔父さん、私も日本の国を精一杯護ったよ」と言える自分でありたいと思う。

特攻の叔父さんについて、私が祖父母や母から聞いている話を、折々に綴ってご紹介したいと思っています。
ひとりの特攻隊員の存在を身近に感じることで、戦争について・家族について・日本の国のあり方について、色々なことを考えるきっかけにして貰えたらな、とも思っております。
そうであれば、今も沖縄の海の底に眠る叔父もきっと喜んでくれるのではないか?と思いますので。
叔父は朗らかな性格で人と触れ合うことが好きな人でした。
自分の話題で話の場が盛り上がることを、彼はきっと喜んでくれるものと思っております。
どうぞお付き合いの程、よろしくお願いいたします。
posted by ぴろん at 09:18| Comment(13) | TrackBack(2) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする