少し遅くなりましたが、表題の番組を視ての感想を、思いつくままに書き綴ります。
私のマイミクさんが取材の協力をしていること。
ここ数年、3月の神雷部隊戦友会の方と靖国参拝をご一緒させて頂いている関係で、私の知っているお顔が番組に出るであろうこともあり、親近感を持って番組を拝見させて頂きました。
思った通り、番組に登場した証言者の内、3名は、私もお話を伺ったことのある方。
中でも佐伯さんという元桜花隊員の方は、神雷部隊の靖国参拝の折、正義大叔父の訓練の様子を話して聞かせてくれた、大切な方です。
叔父が神ノ池基地で桜花の降下訓練を受けた際、着陸に失敗して滑走路わきの松林に突っ込んだ。
けれどたいした怪我もなく、ケロリとした顔で訓練機を下りてきた・・・という証言を聞かせてくれたのは、佐伯氏です。
家族も知らない訓練の様子を、私は佐伯氏の言葉によって知りました。
証言の内容については、私にとって特に目新しいというものではありません。
今まで特攻の大叔父を追いかけて各地を訪ね歩き、または様々な資料を読み漁り、直接元隊員の方からお話を伺う機会を得てきた私にとっては、周知のことがほとんどでした。
ただ、こうして改めて言葉にして語る様子に触れると、大叔父の最期の様子や心情はやはりこうであったかと、身につまされる場面は多々ありました。
特攻は一度出撃すれば二度と生きて鹿屋の基地には戻りません。
桜花特攻の場合、母機の一式陸攻の搭乗員は全部で7名、桜花隊員1名を加えると計8名が搭乗して出撃するわけです。
母機もろとも迎撃を受けたなら、出撃機の数×8名分、一度に人が消えていなくなる。
一度の出撃で百数十人の兵士がスッポリいなくなる、という証言は、改めて聞けば、特攻を送り出す基地の日常が如何に苛酷であったかを思わされます。
そんな中、出撃命令を待つ隊員の思いはどうだったのでしょうね。
桜花隊員の宿舎は鹿屋基地最寄りの野里国民学校。
私もこの春、野里小学校跡を訪ねましたが、周囲を田んぼと畑に囲まれた、本当にのどかで静かな土地柄です。
出撃割が決まると、上官が、隊員が宿舎にしている教室の黒板にチョークで名前を書いていく。
その名前を見たとき、大叔父はどんな思いだったのでしょうか。
記録を読むと、出撃割の発表の際も、桜花隊員の面々は底抜けに明るかったのだそうです。
出撃する隊員は「一足先に靖国へ行っているぞ!」と言い、後に残る隊員は「後から俺も行く、靖国の社の奥に俺の席も一つ取っておいてくれ」などといった会話を交わしたそうです。
ただ、そうはいっても特攻は非情な死には違いなく、昼間は底抜けに明るく振る舞ってはいても、夜寝る前になるとしくしくと泣く者、やけ酒を飲んで騒ぐ者などがいて、自分に出撃命令が下ったとき、果たして冷静にいられるだろうか?と心配した・・・と記録に書いた元桜花隊員の言葉もあります。
死を覚悟して志願したとはいえ、特攻隊員の心は日々揺れに揺れたことが、テレビに登場した証言者の言葉からもはっきりと読み取れます。
一度出撃すれば必ず死ぬ特別攻撃。
しかし十分な護衛もなく、無事敵艦まで辿りつける保障もない。
作戦としては愚策中の愚策、ということを分かった上で、それでも死の恐怖を振り切って出撃に至るには、よほどの悟りが無ければ往けるものではありません。
これまでに何度か書いたように、特攻兵の最期の覚悟を決めさせた物、最終的に彼らの背中を押した物は、後に残る家族への思い以外にはないと思う。
正義叔父の場合は、私の母(叔父の戦死時、国民学校2年生)が叔父に宛てて書いたハガキを胸に抱いて出撃をしています。
まだ幼い甥や姪を護るため、両親や兄、姉を護るため・・・と思わねば、誰が生への未練を振り切って出撃できるというのでしょうか。
番組には桜花の発進ボタンを押した方の証言も出てきます。
その瞬間、彼は眼をつぶり見ることは出来なかった、と証言しています。
いくら軍人でもあの瞬間は見られない・・・と。
その言葉・思いは、私の正義叔父の出撃ボタンを押した、故・室原知末氏の思いにも重なります。
室原氏は、大叔父の命日、5月4日が近付くと、発射ボタンを押したときの感覚がよみがえり、体中の血が逆流するような感覚に襲われたそうです。
毎年毎年、室原氏は大叔父の実家を守る家族に宛てて、墓前に供えて欲しいと長い手紙と供物を送りつづけました。
私が物心ついたころから、この手紙の存在は私も知っていて、母の実家の仏間にかかる大叔父の遺影と共に、特攻というものを身近にしてきました。
もちろん子供の私に特攻の何たるかが分かるはずもなく、特攻が余りにも非情な死であることを思い知るのは、まだまだ最近の話ではありますが。
室原氏の手紙の内、何通かは私も読ませてもらったことがあります。
達筆でしたためられたその手紙は、出撃当時の状況やその際の自分の思いなどを、まるで便せんにぶつけるようにして書き記してあったことが今も印象に残ります。
室原氏もまた、特攻から生き残ってしまった苦しみを、生涯背負い続けた方でありました。
桜花を作った技術者が仰った、自分が桜花を作ったと胸を張って言えない、という言葉も胸に詰まりました。
戦時中とはいえ、上部からの命令に逆らえない立場であったとはいえ、はやり特攻専用機を作ってしまうという、その苛酷な現状に、人の心はそんなに簡単に苦悩を凌駕してはくれないのですよね。
特攻機を作った人、出撃命令を出した人、発進ボタンを操作した人、そして特攻で死んだ人。
奇しくも生き延びて戦後命を長らえた人。
その誰もが、苦しみ悲しみの渦中に身を置いたのが、特攻です。
勝ち目の無い戦いに、戦果を出せないと分かっている出撃に、我が命を預ける。
死を覚悟するその崇高さと、稚拙な作戦行動の隙間を埋め、自分の死を意味あるものにする唯一の方法は、自分が愛する家族や友人知人のために、我が命を掛ける・・・ということであったのだろうと思います。
特攻の正義大叔父が、特攻に志願し、神雷部隊に配属されるその直前、私の母に書き送ったハガキの最後の一文には幼い子供でも読めるように片仮名書きで「オテガミチョウダイネ」の文字があります。
それに応えて、母はつたない文字をハガキに書き連ねて、叔父に送ったそうです。
特攻の大叔父の足跡を調べるため、あちらこちら訪ね歩き、今年は念願の鹿屋と沖縄に足を運んで、今強く胸に迫るのも、大叔父のハガキにある「オテガミチョウダイネ」の言葉なのです。
どんな思いで、叔父はこの一行をしたためたのだろう?
どんな思いで、母からの返事を待ったのだろう?
訓練の日々、鹿屋に移動してから出撃までの日々、どんな気持ちで叔父は母のハガキを眺めたのだろう?
そう思うと、私はとてもいたたまれない気持ちになります。
叔父の圧倒的な愛情の重さに、今も押しつぶされそうになる自分がいます。
自分の命を差し出してでも、国を護る覚悟。
家族を護る覚悟。
その気概。
理屈でなく、鬼気迫る彼らの心情が、後に残された家族の肩には圧し掛かります。
そして心ならずも生き延びてしまった元特攻隊員が、戦後の時代を苦しみや悲しみを胸の奥に抱えて生きてきたという事実も、忘れてはいけないと思っています。
念仏平和では国は護れない。
けれど、特攻の悲劇は繰り返してはならないと思っています。
人の犠牲を最小限に抑えた上で国を護るためには、トップの知恵や戦略が必要。
したたかな外交も必要。
戦後の日本という国は、そういう賢い国であって欲しい・・・
靖国の社で、私の大叔父はそんな風に思ってはいないだろうか?と近頃考えている私なのです。