2010年08月14日

なぜ、誰も特攻を止められなかったのだろう?

最近、「永遠の0(ゼロ):百田尚樹著・講談社文庫」という一冊の本を読破しました。
それを読んでの感想を、今日は少し書き綴りたいと思います。

ネタばれになると困るので、内容についての詳細は省きます。
大雑把に説明すると、26歳の一人の青年が、沖縄特攻で戦死した祖父の生前の生き様を求めて、全国各地の戦友を訪ね歩く、という内容の小説です。

改めて言うまでもなく、私の肉親にも沖縄特攻で戦死した大叔父がおり、彼の生前の足跡を辿って、つい先日鹿児島県鹿屋市と沖縄県本部湾を訪ねてきたばかりの私には、小説の設定に親近感を持ちました。
小説の形はとっていますが、その内容は、実際の特攻の現状に極めて限りなく肉薄するものと思います。
関心のある方は一度ご一読頂くとして、私が特に興味を引かれたのは、小説の第9章「カミカゼアタック」に出てくる、元海軍中尉の武田という老人が、主人公の健太郎に語る証言の部分です。
その中から、特に、私の心を惹きつけて止まない一文を、ここに引用してご紹介をさせてください。


・・・引用開始・・・

「特攻の父」と言われる大西瀧治郎中将は終戦の日に切腹して死んだ。この死を「責任を取って死んだ」立派な死と受け取る者も少なくないが、私は少しも立派とは思わない。多くの前途ある若者の命を奪っておいて、老人一人が自殺したくらいで責任が取れるのか。
 百歩譲って、レイテの戦いでは、やむをえない決死の作戦であったのかもしれない。しかし沖縄戦以降の特攻はまるで無意味だった。死ぬ勇気があるなら、なぜ「自分の命と引き換えても、特攻に反対する」と言って腹を切らなかったのだ。

・・・引用終了・・・



この言葉を読んで、私ははっとしました。
長年、心の中でもやもやした思いを抱えつつ、上手く言葉に出来なかった私の率直な感情。
それがこの一文には見事に表現しつくされている、と強く感じたからです。



特攻は外道の統率、とは巷間良く言われる言葉。
そして、私がここで改めて説明するまでもなく、特攻隊員に選抜された若者の多くは優秀な人材でした。
生きていれば、日本の発展のためにどんなに役に立ったかわからない人たちでした。
その未来ある優れた若者を、勝ち目の無い絶望的な特攻作戦の渦中に、虫けら同然に投入して死なせた責任は、一体誰が取ってくれたというのだろう???
それが大叔父の足跡を追う一方で、いつも感じる素朴な感情でした。


特攻の責任問題を語る時、大西瀧治郎中将の割腹自殺の話は、必ずと言っていいほど出てきます。
特攻に少しでも関心なり知識なりをお持ちの方で、大西瀧治郎中将の名前とその壮絶な最期を知らない方はいないでしょう。
戦争中「君たちだけを往かせはしない、俺も必ず後を追う」と言いながら、その言葉と裏腹に姑息に戦後を生き延びた人もいる中、自ら自決した大西中将。
部下の介錯を拒み、数時間も七転八倒の末に絶命した・・・壮絶な最期を遂げた、大西中将の死は軍人として天晴れだと。


確かにそういう見方も出来ると思いますし、そういった類の意見に異を唱えるつもりは私にはありません。
大西中将は終戦の日、彼なりに責任を取って自決したという、その心情は私も理解します。
ただ現実問題として、特攻でリアルに肉親を失った遺族の立場から見れば、何か釈然としないもやもやした感情が、ずっと私の心の奥底でうごめいていたのも、また事実です。



大西中将が如何に壮絶な最期を遂げようと、特攻で死んだ多くの若者の命は一人も返ってこない。



それは、遺族としての偽らざる率直な思いです。
特攻そのものが無謀な作戦と分かっていたなら、終戦後に腹を切るのではなく、戦争中に命を掛けて、特攻作戦を止めてはくれなかったのか?
それは何も大西中将でなくても構わない。
誰か一人でも、特攻作戦を強行しようとする上層部に対し、自らの体を張ってでも特攻作戦を阻止してくれる人がいたなら、三千人とも四千人ともいわれる多くの特攻隊員の命は、あるいは救われたかもしれない。

そう思ってはいけないでしょうか?



本当に国を憂えるならば、責任ある立場にいた人たちは、日本の未来を担うはずの多くの優秀な若者の命を、どうにかして生かす策を講じて欲しかった・・・とも思うのです。
歴史にif、もしも、という仮定の話をしても仕方がありません。
あの戦争の時代を必死に生きた人たちに、そこまでの覚悟を求めるのは筋違いかもしれない。
私の戯言は、所詮は戦後生まれの平和ボケの極みかもしれません。

でも。

歴史の教訓に学ばなければ、人は同じ過ちを繰り返す。
なぜ誰も、この無謀な特攻作戦を止められなかったのか。
多くの優秀な若者を無意味に死なせてしまったのか。

・・・という本当の意味での反省を今こそしなくては、多くの特攻隊員の死はいつまでも報われない・・・とも思うのです。



特攻は愚策中の愚策。
決して繰り返してはいけない歴史の悲劇、です。
その悲劇を繰り返さないためにも、大西中将の割腹自殺を美談として感じ入った所で思考を止めてはいけないのではないでしょうか。
四千人もの若者を死なせた後で、後追いで一人腹を切った所で、正直どうにもならない。
それが桜花特攻での大叔父の壮絶な死の重みを両肩に背負っている、肉親としての私の率直な感情です。


命を捨てる覚悟が大西中将にあったのならば、死んで責任を取る覚悟があったのならば・・・
多くの前途ある若者の命を救うために、終戦後ではなく特攻作戦を開始する前に、特攻実施を強硬に唱える上層部と例え刺し違えてでも、無謀なこの作戦を阻止して欲しかった・・・

・・・と言ったら、言い過ぎでしょうか?



私の特攻の大叔父は、自分の運命をどう受け入れ、十死零生の特攻作戦の渦中にどう身を置いていたのか?
出撃の地・鹿屋を訪ね、終焉の地・本部を訪ね、いまだ一片の骨すら故郷に帰れないまま、本部湾の底に沈んている叔父の肉体を目の前にして、どうしてだれ一人として、このあまりにも不条理な作戦を止められなかったのか?と思わずにはいられないのです。


予科練の試験を一番で通ったほど、優秀だったという正義大叔父。
その彼を虫けら同様に死に追いやり、その作戦遂行の責任を誰も取らないとしたら、遺族としてはとても納得できるものではありません。
大西中将が如何に壮絶な自決を遂げようとも、特攻という余りにも残酷な死に直面せざるを得なかった若者の無念と、後に残る遺族の悲しみは、どんなに年月が過ぎようともそう簡単に消えるものではない、と私は感じております。
posted by ぴろん at 09:10| Comment(6) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月05日

第32回川口たたら祭り街頭活動のおしらせ

埼玉県川口市で開催される市民祭り「第32回たたら祭り」の会場内で、拉致問題を考える川口の会の皆さんが街頭署名活動を行います。
田口八重子さんのご家族をはじめ、特定失踪者のご家族も多数参加して、拉致問題の一刻も早い解決を解決を訴えるための街頭です。

川口の会の特定失踪者ご家族の中には70歳を超えた高齢の方もいらっしゃいます。
この猛暑の中であっても、わが子・きょうだいの救出を訴えて行動する川口の会の署名活動に、是非ご協力をお願いできればと思います。
今年の街頭こそが、最後のたたら祭り街頭活動となることを、心より祈ってやみません。




第32回川口たたら祭り 街頭署名活動

主催:拉致問題を考える川口の会
日時:8月7日(土)、8日(日)の両日、10:00〜16:00までの6時間
場所:川口オートレース場内、西門近くの広場
交通:JR川口駅・JR西川口駅・JR東川口駅・JR蕨駅・安行支所より無料バス運行
    ※無料バスのダイヤ等、詳細は公式HPをご参照ください

第32回川口たたら祭り公式HPは↓こちら
http://www.tatara-matsuri.com/
posted by ぴろん at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ご挨拶&お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月22日

金賢姫来日

鳩山氏の別荘滞在や富士山遊覧飛行がいいかどうかは別として、彼女が来日するならば、警備の都合上特別待遇にならざるを得ないのはある程度仕方の無いこと。
大韓航空機爆破事件の実行犯である彼女の命を、今も北朝鮮が狙っていない・・・という保証はどこにも、ない。
万が一日本滞在中に金賢姫が殺されるようなことがあったら、どうするんだろう?
それこそ日本の恥さらし。
警備を含めて、金賢姫の待遇が特別にならざるを得ないのは、やむを得ないと、私は思うけれども・・・


金賢姫と家族が面会しても得られる情報は古すぎて、即救出に結びつくとは私には思えない。
それでも家族はどんなわずかな手がかりでも知り得たい、と思うのは人としての人情。
それを誰が責められるんだろう?
拉致から数十年もの長きにわたり、この問題を放置し、無視し、いまだ一人も救えないでいる情けない私たち一般国民に、家族のそれを批判する資格や権利は、そもそもあるんでしょうかね・・・?


金賢姫の来日で、一時的には世論の関心は確かに高まるでしょう。
街頭や集会で歯ぎしりするようにして、救出運動を展開するよりも、この度の彼女の来日ははるかにインパクトはあり、世論への波及効果は大きい。
それは否定のしようが無い。

でも・・・

金賢姫が帰国したら、おそらく潮が引いたように、マスコミはこの問題に関心をなくし、世論もおそらく忘れてしまうのです。
年末の今年の十大ニュースの頃に、そういえばそういう出来事もあったなぁ・・・位の関心しか、おそらく大衆は持たないでしょう。
それでは、本当の意味で世論を喚起したとはいえないのでは?と、私は思う。




ただし、です。
一刻も早く拉致被害者を救いたい、救ってほしい、という熱は、依然として大衆の中にはあると、私は確信しています。
それは街頭で署名をお願いするときに、切実に感じています。
忘れっぽいはずの日本人が、2002年9月17日以降8年目の今になっても、拉致を忘れてはいない。
その確信は、私の中には確実にあります。

ただ、問題なのは、大衆の中にある救出へのその熱を、どうすれば上手く掬いあげられるのか?
政治を動かす力へと昇華出来るのか?
私に出来ることは余りにも小さく無力で、正直どうすればいいのか、分からないのです。


国が政治が動かねば、拉致被害者は取り戻せない。
拉致被害者を取り戻すには、水面下で、国民の目に見えないところで、まずはギリギリの情報収集をしなくてはならないでしょう。
その動きは今、政府にあるのかないのか・・・


金賢姫の来日でしか、情報を取れないとしたら、日本のお寒い情報収集能力を嘆くべき。
金賢姫の来日でしか、世論の喚起が図れないとしたら、日本の世論の関心度の薄さを嘆くべき。


その肝心なところを見ずして、目先の批判に終始するのは、私にはピントのずれた議論に思えてなりません。





いつになったら、この日本は日本国民は、拉致被害者を本気で救いだせる国と国民になるのでしょうか?
posted by ぴろん at 12:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月20日

沖縄備忘録

母と共に特攻の大叔父を訪ねる慰霊の旅から帰って、早一ヶ月が過ぎました。
印象に残った旅の出来ごとはすでに書き綴りましたけど、一つだけ忘れていたことがあったので追加で書き記します。
備忘録を兼ねて・・・


まずは旅の二日目、平和の礎を訪ねた時の思い出です。

ここを訪ねた方はご存じだと思いますが、平和の礎に入るとすぐのところに数ヶ所タッチパネル式の検索ガイドがあり、探したい人の名前を入れると、碑の所在地を教えてくれます。
まずはそこで大叔父の名前を入れて、碑のあるところを探し出し、所在地をプリントアウト。
それを手に広い公園内を探すのですが、そこはガイド役も兼ねた観光タクシーのドライバーさん。
平和の礎は案内し慣れていると見えて迷うことなく、千葉県出身者の礎まで連れて行ってくださいました。

碑文に刻まれた名前は50音順に並んでいます。
石渡のいの字は、50音の初めの方と見当をつけて、石井や石田など石の文字から始まるあたりを探し始めた時でした。

「あ!いた!叔父さん、ここにいた!」

母の大きな声でした。

普通、碑文に刻まれた名前を探し当てたらば、ふつうは「あった!」と言うでしょう。
でも、母は「いた!」と叫んだのです。

碑文に刻まれた多くの名前は、縁もゆかりもない人から見れば、ただの名前の羅列です。
でも母にとっては、石碑に刻まれた叔父の名前は、命の温もりを持った叔父の存在そのもの、だったのだと思います。
だから大叔父の名前を見つけた瞬間、本能的に「あった」ではなく「いた!」と叫んだのではないか?と。

そして叔父の名前に取りすがって、後は涙、涙。
「長い間、寂しい思いをさせてごめんなさい、叔父さんやっと逢いに来たよ」と。

沖縄は千葉からは遠い所、そう滅多に行けるところではありません。
石碑の名前を写し取って持ち帰ろうと考えて、事前に半紙を準備していったのですが、石碑に半紙を当てて鉛筆でこすって叔父の名前を写し取るその瞬間、自分の口から出た言葉が、

「せめて名前だけでも千葉に連れて帰る」

でした。
持って帰るのではなく、連れて帰る。
石碑に刻まれた名前を目にしたその瞬間から、私にとっても、叔父の名前が刻まれた石碑はただの碑文ではなくなったのだと思います。



旅の3日目、本部湾にて。

本部の海をどうしても訪ねたかったのは、叔父は特攻で戦死し遺骨のひとかけらも故郷には帰れなかったので、叔父に逢いたいと思ったら、叔父の肉体の沈む海に、こちらから訪ねていかなければ逢えないと思ったから。
叔父もきっと海の底で寂しい思いをしながら、肉親の訪れを心待ちに待っているのでは?と思ったからです。

で、苦心惨憺ようやく訪ねた本部の海で、「叔父さん逢いに来たよ〜!」と母子共々声を限りに叫んで。
花と線香を供えて、遺骨代わりに本部の浜の石と砂を拾い集め、小一時間も過ごしてさて、そろそろ帰ろうとなった時、母の口から思わずこぼれた言葉が、

「叔父さん一緒に帰ろう!和子が叔父さんを背負って帰るから、一緒に千葉まで帰ろう!」

でした。
はるばる千葉から逢いに来ても、叔父の遺骨を連れ帰ることは出来ない。
身代りに浜辺の石と砂を拾っても、やはり叔父の体は、目の前の本部湾の底にいるわけで、置いて帰るのはどうにも忍びない。
さて、困ったどうしよう、と思ったその瞬間に、母が叫んだわけです。
「一緒に帰ろう!」と。

その瞬間、私も思いました。
そうだ、一緒に連れて帰ろう、このまま一人ぼっちで叔父さんの魂を置き去りには出来ない。
連れて一緒に千葉まで帰ればいいんだ、と。
そう思った瞬間から、後ろ髪引かれる思いがす〜っと心の中から消え去る感じがしました。
物理的には叔父の骨を拾ってはいないので、叔父の体は今も本部の海の底にいるわけですが、それでも魂だけは一緒に沖縄から空路千葉まで連れ帰ってきたと感じております。



南方で、シベリアで、無念の死を遂げた日本兵の遺骨が、まだ収拾されずに現地に残されています。
きっと彼らは祖国日本に帰りたいに違いない。
家族のもとへ、故郷へ、帰りたいはずだと思います。

いつだったかアルピニストの野口建さんが、縁あって南方のあるところへ元日本兵の遺骨の調査に同行したとき、多くの遺骨を見つけながら、様々な理由でその御遺骨を持ち帰ることが出来ず、現地に置いたまま日本へ戻らねばならなくなったことがあったそうです。
その時、野口さんは「必ず皆さんを迎えに来るから、もうしばらく待っていて欲しい」と涙し、後ろ髪引かれる思いで現地を離れた・・・という記事を読んだことがあります。
そのお気持、今の私には分かるような気がします。
目の前に、御遺骨があって、無念の魂の存在を目にした時、人はそのままその場を立ち去るなんて、出来ないことだと思いますから。


何気ない一言ではあるのですが、母の発した「叔父さんいた!」と「叔父さん一緒に帰ろう!」の言葉に、肉親ならではの思いを感じて頂ければ幸いです。
知らない人が見れば、ただの石碑、ただのサンゴ礁の海です。
でも、ゆかりの者には、それは単なる物体でも風景でもなく、魂の宿る寄りしろであることを、ご理解いただければ嬉しく思っております。
posted by ぴろん at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月09日

今年の5月4日

20100504.jpg

連休中は、バタバタと仕事に追われ、連休明けには拉致支援の街頭活動に追われで、今年の大叔父命日の靖国参拝について書く暇がありませんでした。
ようやく忙しさも少しだけ息をつけたので、忘れないうちに、いろいろと今年の思いを書き記したいと思っています。


5月4日は、私の特攻の正義大叔父の命日。
実家の両親、妹と途中駅で待ち合わせて、今年も靖国へ行ってきました。

今年は念願の鹿屋&本部の慰霊の旅もしたことですし、叔父さんの御霊にその旨を報告する、という大きな目的もあります。
歳を重ねて歩みが少し遅くなった母の隣で、歩調を合わせるようにして、九段の急な坂を上り、社を目指しました。


手水を済ませて神門をくぐり、まずは神雷桜へ。
ご本殿の奥深くに叔父の御霊がいらっしゃることは分かっていますけど、戦友との再会を誓った神雷桜は、遺族にとってはもう一つの寄りしろであり、叔父の肉体そのもの、といっても過言ではありません。
年月を重ねて大きく太ったその幹に手を添えると、陽の光に暖められた幹のぬくもりはそのまま叔父の体温のような気がします。
春、桜の季節には淡いピンク色に染めていたその姿も、すっかり新緑の若葉に変わり、風にそよぐ若葉の葉ずれの音は、叔父の息遣いのような。

母は靖国を訪ねると、いつもいの一番に神雷桜に抱きつきます。
神雷桜を抱きしめることは、母にとっては、そのまま特攻の正義叔父を抱きしめるのとイコール。
そして、涙。


昇殿参拝をお願いし、他の参拝者と共に御社深く進んできました。
今回の昇殿参拝は、どういうわけか遺族の方が多かった。
昇殿はこれまでに何度もさせてもらっていますけど、遺族の方と同席することはあっても我が家の他にもう一軒くらい、というのが常でした。
お日柄が良かったのか、たまたまだったのか分かりませんが、この日は大叔父を入れても全部で5名ほどの遺族が集まり、ご一緒に昇殿させて頂きました。
昇殿の拝礼でも、いつもなら家族の代表1名だけが榊をささげて拝礼するのですが、この日は遺族が多いことに配慮してくださったのか、昇殿した参拝者全てに榊を渡してくださり、それぞれ拝礼をさせて頂きました。

静かに頭を垂れて目を閉じると、つい先日訪ねたばかりの鹿屋基地の風景や本部湾の景色が目に浮かび、涙を抑えることが出来ません。
今までも、資料や本などでそれなりに叔父の足跡はたどってきたつもりですが、やはり現地に足を運んで直接にその場の空気なり距離感なりを感じてくると、心に迫るものの強さは違うのだと実感します。

「叔父さん、あなたの人生の最期の場所を訪ねてきました。
残しおきたしわが心かな・・・と願ったあなたの心の内のいくばくかでも感じる旅が出来たと思っています。
この思いを一人でも多くの方に伝えますから、どうか心安らかにお眠りください」


参拝後は、すぐ隣にある遊就館へ。
ここを訪ねるのも、もう何度目なのか分かりません。

でも、例えば沖縄の地に立ち、目の前に迫る東シナ海とその向こうにある中国の存在を意識して戻った視点で展示物を見ると、従来の自虐史観だけでは語れない、当時の日本の切迫感を感じます。
沖縄を守るために、そして一隻でも多くの米戦艦を沈めるためにと出撃した特攻隊員の胸の内を思うと、今までの「戦争=軍隊=悪」という単純図式の思考のままでいいんだろうか?と素朴な疑問も感じます。
戦争はしないに越したことはないけれど、憲法9条を金科玉条のごとく拝み倒し、戦争の出来ない国のままでいることが果して本当の意味での平和の維持につながるんだろうか?・・・とも。


遊就館の中には、特攻機桜花のレプリカが展示されています。
私たち家族がその場にたどり着いた時、小学校3〜4年生くらいの男の子を連れた若いご夫婦が、そのレプリカを興味深そうに見学しているところに出くわしました。
と、次の瞬間、母はその親子に歩み寄り、今日は特攻の大叔父の命日であることや今目の前にある桜花に乗り沖縄に出撃したことを、身振り手振りで説明を始めたのです。
相手のご家族が、母の話に興味を示してくださったこともあり、母はいつもバッグに入れて持ち歩いている叔父からのハガキや遺影、沖縄の旅で半紙に写し取ってきた大叔父の名前を見せながら、「国や家族を思って死んでいった若者がいることを、どうか忘れないでください」と涙ながらに語り始めたのです。

鹿屋と本部の旅でも、途中現地の方と言葉を交わす折には、必ず叔父の話を切り出しては、「どうか忘れないでほしい、こういう若者がいたことを知って欲しい」と、涙交じりに喋り続けていました。
いきなり特攻の話を聞かされる側からしてみれば、このおばさん、なんだろう?と思う方も多分いらっしゃっただろうと思います。
どちらかといえば人見知りするタイプの母が、人が変わったように堰を切って叔父の話をする様子を見るたびに、この頃思うのです。
母は、叔父の事を伝えたいんだな、と。

母も戦後65年を経て、今年72歳になりました。
残りの人生あと何年か、あとどれくらい元気で出歩けるのか?と考える歳になってしまいました。
自分が元気なうちに、一人でも多くの人に叔父さんの存在を知ってもらいたい・・・そんな切なる思いを、この頃の母の後ろ姿に感じています。

遊就館での親子連れは、幸いにも母の話を関心を持って聞いてくださりました。
別れ際には、貴重な話をありがとうございます、と仰ってもくださりました。
母は最後に小学生の男の子に向かって、「私の叔父さんが亡くなった時、私はちょうど君くらいの歳だったんだよ。姪っ子を護ろうとして死んだ人がいることを忘れないでね」と話しかけてお別れをしました。

その男の子の心のうちに、母の話がどの程度伝わったのか?は正直分かりません。
小学生の子供が聞くには、特攻というのは余りにも話が凄すぎて、その苦しみや悲しみを理解するのは相当に難しいと思うからです。
実際、私も小学生くらいの頃は、祖父母から叔父の話をいくら聞かされても、特攻がどれだけ壮絶な死であったかをイメージすることは出来ませんでしたし。

でもいつか、もう少し大きくなって自分の意思で歴史の勉強をするようになった時、彼の心の中で、母とのやり取りが少しでも思い出されてくれれば、それでいいと思っています。
男の子から見ればまったくの赤の他人のおばあちゃんが、いきなり自分の目の前で、大粒の涙を流して叔父の思い出を語るその姿を心の隅にとどめ置いてもらえれば、英霊の心は必ずその子にも伝わるのだと、私は信じたいですから。
posted by ぴろん at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする