2010年04月25日

ブルーリボン作りにご協力を♪

東京ブルーリボンの会が行う街頭活動は、大体2カ月に一回程度の頻度で行っています。
そこで配布するリボンパッケージの数は、多いときで1000〜1200個。
少ないときでも500個程度は用意しています。

リボンは、ブルーリボンの意味やボランティア募集の案内を記したカードと一緒に3個ひと組でビニールパッケージして配ります。
3個のリボンをパッケージして配るのは、「一つはご自分の胸に、残りの二つはご家族や友人など、身近な人にあなたの手で広めて頂けませんか?」との願いを込めるため、です。


リボンを作る人。
それを街頭で配る人。
パッケージを受け取って身近なお知り合いに配る人。


一つのリボンに、それぞれの立場から「救いたい!」という願いを込めて。
一人一人の「救いたい!」という願いをつないで、ブルーリボンが一人でも多くの人の胸に輝いたら、それは必ず救出のための力になると信じています。



東京ブルーリボンの会では近々街頭活動を予定しています。
その際に必要なリボンは最低でも1500個。
多いときは3000〜3500個ほどのリボンが必要です。

一人でも多くの方にリボン作りのご協力を頂けると、ありがたく思っております。
あなたの「救いたい!」という願いのこもったリボンを、会までご提供いただけないでしょうか?

私も日々リボンの増産に励んでいますけれど、一人の努力にはどうしても限界があります。
リボン作りにご協力いただける方がいましたら、是非東京ブルーリボンの会までご連絡ください。
毎度毎度、お願いばかりで恐縮ですが、一人でも多くの方のお力添えを頂きたく、ご連絡をお待ちしております。
どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>


ご希望の方にはリボンの作り方を解説した資料も用意しています。
数の多少、上手下手は問いません。
大事なのは、「救いたい!」という願いですから。


かわいい東京ブルーリボンの会連絡先 blue-jewel-7@mail.goo.ne.jp
posted by ぴろん at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

基地と沖縄

20100415.jpg

沖縄の地に立って思うのは、ここは東シナ海を挟んで目の前が中国大陸なのだな〜〜、ということ。
逆に中国大陸の側に立って沖縄を眺めると、中国が広〜い太平洋に出るには、目の前の沖縄諸島が防波堤のように邪魔をしている、ということ・・・です。

沖縄の人たちが好むと好まざるとに関わらず、ここは今も昔も地政学的に国防の拠点なんだな、と改めて実感します。
それと、エネルギーを石油に頼る日本にとっては、シーレーンでもある沖縄付近を中国に抑えられてしまうことは、日本の喉元に刃物を突き付けられたのに等しいこと・・・とも感じました。

基地移転を巡って論争かまびすしいこの頃ですが、国防の視点を忘れた論争は何かが間違っていると思います。
沖縄の過重な基地負担は配慮をしなくてはならないでしょうが、だからといって「沖縄に基地はいらない!」と極端に丸腰論に走ってしまうのも、どこか違うと思います。
沖縄から基地が消えて丸腰になったら、ここは間違いなく中国の支配下に置かれるのではないでしょうか?
日本が戦争に負けて、沖縄がアメリカの支配下になり、島の良い場所を基地に占領されて沖縄の方々が不便を強いられているのも、歴史の事実でしょうけれども・・・
かつて琉球は中国に対し朝貢外交で沖縄の安泰を図ろうとしたのも歴史の事実・・・だったはず。
沖縄が未来永劫、平和で穏やかに暮らせる土地であるために、本当に必要なものはなんだろう?と考える視座があってもいいように思っています。

沖縄が日本を離れて仮に独立したとして、沖縄の安泰を自力で維持できるでしょうか?
朝鮮半島が、その周囲を大国に囲まれ、各国の政治力学に翻弄された歴史をたどっているのと同じに、沖縄もまた、周辺国の思惑に翻弄されるのは、目に見える未来予想図のようにも感じます。
沖縄はこれまで通り、日本のままでいた方がいいのか?
それとも中国の支配下に入ったほうが幸せなのか?

沖縄の方には少し残酷な言い方かもしれませんけれど、国防の視座から考えたとき、理想論や願望だけでは済まない厳しい選択を迫られるのが、沖縄基地問題を考える上でのひとつのファクターなのだと感じます。



旅の最終日、本部湾での慰霊を終えた後、空港にそのまま戻るには多少の時間があったので、お願いして沖縄本島の東側に出てもらい、辺野古地区が見渡せる場所に連れて行ってもらいました。
現地に行って感じたことは、沖縄は観光の島と言いながら、島の東側には観光客があつまるような観光スポットがほとんどない、ということ。
辺野古地区の方々が地域の再建を願い、苦渋の選択で基地受け入れを決断されたことを、改めて実感してきました。

沖縄駐留アメリカ兵が、問題を起こしてはニュースに出ることで有名な金武町のキャンプシュワブも、本島の東側。
ここは採用間もない新兵が派遣されてくるところなので、どうしてもあれこれ問題を起こしやすいのです、と運転手さんからの説明も頂きました。


嘉手納基地のある嘉手納町は町の面積の9割ほどを基地に占領されていること。
基地のある町に入ると、Yナンバーの車(基地のアメリカ兵の所有する車はYナンバーをつけています)がやたらと目立つこと。
基地周辺のアメリカ兵相手の商売は、円高ドル安の影響がすぐに出て、景気の変動が左右されること。(ベトナム戦争のころは基地周辺の商売は、ずいぶん繁盛したそうです)
町を走るアメリカ兵の着る軍服の色は砂漠仕様の茶色であること。(これは沖縄からもイラクに派兵されていることを意味します)
ベトナム戦のころは、アメリカ軍の軍服の色はジャングル対応の緑色だったそう。
沖縄中北部の道路を走っていると、道路わきに「イノシシ飛び出し注意」のほかに、「流れ弾注意」の看板がある!(沖縄にサルはいないが本土より小型のイノシシは山にいるそうです)

沖縄では4月に旧暦で清明(せいめい)と呼ばれる本土のお彼岸のような季節行事があり、一族が集まってお墓参りをするそうです。
今年の清明では18日と25日に帰省ラッシュがあるそうで、道路上の交通情報の電光掲示板にも、「18日清明のため渋滞予想」なんて表示されていました。

沖縄の墓は、本土の墓と違って一族の方が一つの大きな墓に入ります。
中北部の地元の生活道路をいくと、道路わきに突然大きなお墓が目の前に現れてびっくりします。
最近新しく作られた墓もありますが、道のすぐ脇の崖に穴を掘り、普段はその入り口を石を積んで塞いであるような、昔ながらのお墓もたくさん点在していました。

で、沖縄戦終了後、どさくさ紛れでアメリカが勝手に基地を作ってしまったため、人によっては基地の中に一族の墓がある、という方も結構いるんだそうです。
その場合は役所を通じて何月何日に墓参りのために基地の中に入れて欲しい、と申請を出して許可をもらい、清明の墓参りをするのだそうですね。


沖縄では生活の隣にすぐ基地がある。
その事実を改めて実感した、沖縄の旅でもありました。


※写真は、沖縄半島東海岸の勝連半島(石油備蓄基地がある場所)
本部からの帰り道、高速道路の金武町サービスエリア展望台より撮影したもの
posted by ぴろん at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 与太話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

沖縄の旅・・・本編

沖縄二日間の移動には、奮発して観光タクシーをお願いしました。

理由はいろいろ・・・そもそも免許を持ってない、というのもありますが、極度の方向音痴の私は初めての場所は必ず迷子になる、というリスクがあり、これを考慮しないわけにはいかない・・・(^^ゞ

それに糸満市にある平和の礎は、誰にも知られた観光地でもありますが、本部湾の方は、何か記念碑や慰霊碑があるわけでもなく、とにかく海を一望できて可能であれば浜に降りられる所・・・と、目的地が非常にアバウトですから。
これはある程度地元の地理に詳しい方に連れて行ってもらわないと、どうにもならん、と思っての決断でした。

結果的には、これが非常に良かった・・・と思っています。


観光タクシーを生業にされている方ですから、運転手さんは沖縄のあらゆることを勉強されているわけです。
もちろん、沖縄の地上戦についても非常に詳しい。

特攻に関してなら、私もそれなりに資料を読み漁りある程度の知識を持っていますけど、沖縄戦についてそれほど詳細な知識があるわけじゃありません。
もちろん沖縄戦に関しても多少は勉強してますけれども・・・

逆に運転手さん側は地上戦には詳しくても、特攻に関してはアバウトな知識しかお持ちではないのです。
で、私の持つ特攻の情報と、運転手さんの持つ地上戦の知識をすり合わせると、相乗的に沖縄戦の地上と海上の戦況の様子が、大変なリアリティーを持って浮かび上がってくるわけです。
車が走るのは、まさしく沖縄戦の現地そのもの。
これほど有益な歴史の勉強も他にない、と感じました。

沖縄には、室原さんが書き遺してくださった、叔父の最期の様子を記した手記のコピーを持参しました。
それを改めて現地で読み返しながら、本部湾では叔父の桜花の投下状況を目の前の景色に重ねて再現しました。
地図の上で辿るだけでは分からない、当時の様子が、目の前に浮かびあがりまして、これが現地を訪ねる一番の良さ、と実感しました。


本部では、車一台がやっと通れるような、おそらく地元の人しか知らないような細い道を抜けて、本部湾を一望できる場所を案内して頂きました。
これ、いくらナビ付きのレンタカーを借りても、自力でこの場所にたどりつくのは難しかったかも?
それに本部湾には私たち以外には人の影も無く、記念の写真を撮るにも風がとても強くて、仮に三脚を持参しても役には立たなかったと思われます。

観光案内付き・カメラマン付き・道案内付き・・・と思えば、タクシー代は決して高くはなかったと、親切にしていただいた運転手さんには心より感謝しております。




空港で運転手さんとお別れする際、「私たちの慰霊の旅に同行して、私もとても勉強になった」と仰ってくださいました。

私からも、
「これも何かのご縁、手記のコピーを差し上げますので、よろしければ読んでみてください」
と、持参した室原さんの手記の写しを、運転手さんにお渡しいたしました。

亡き大叔父の思いや室原さんの思いが、こういう形で少しでも広がれば、それも供養になるのでは?と思っています。
posted by ぴろん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旅を終えて

※2010年04月16日17:51 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・

念願の鹿屋&本部の旅を無事終えました。
母の足腰が立つうちに、という願いがかなえられてホッとしています。

旅を終えて今一番思うのは、やっとこれで気持ちが一区切りついたなぁ、ということ。
良くテレビなどで「ようやく私の戦後が終わった」というセリフを耳にしますが、あれに近い感情が今私の中にはあります。



特攻の死は、遺骨の一片も拾えない死です。
うちの正義叔父の場合は奇跡的に、最期の地を知る手がかりがありましたが、多くの遺族にとっては、肉親の終焉の地を知ることすらできない。
分からなければ、最期の場所を訪ねて行くことも出来ないわけです。

でも、私たちは本部を訪ね、叔父の最期の突撃の様子を目の前に再現することが出来る。
それが、どんなに心の区切りをつけるのに役立っているのか?ということを、深く実感しています。
その意味で、逆に最期の様子が分からないご遺族は、いつまでも苦しい思いを引きずって辛い思いをされるのだろうな、との思いも強くしました。
区切りがつかなければ、多くの遺族にとって戦後は終わりたくとも終わらないのだ、と実感を持って受け止めています。


本部の浜で花束を捧げた後、浜辺で石と砂を少し拾い集めました。
叔父の遺骨を拾うことは出来ないけれど、この浜辺にはもしかしたら、叔父の骨片が一部なりとも打ち寄せられていたかもしれない。
そう思いながら、砂と石を拾い集めた後、本部を立ち去るとき、後ろ髪を引かれる思い、というのは不思議とありませんでした。

本部の海に向かって「叔父さん!私が叔父さんを背負って千葉に帰るよ!長い間待たせてごめんなさい!」と母が叫んだ通り、叔父の魂を一緒に連れて帰って来たような気がしているのです。

物理的には、今も叔父の肉体は本部の海の底にあります。
魂は靖国の社にいるもの、と信じて参拝も続けてきました。
戦死の公報をいただいて、空っぽの白木の骨箱ももらっていますし、千葉の実家には叔父の爪と髪を納めて作った墓もある。

でも、何かが足りない。
長い間、心のどこかで漠然とそんな思いを抱えて過ごしてきました。
その足りなかったものが、今度の旅で埋められたような、そんな満足感・充足感があります。


鹿屋も本部も、遠い。
飛行機に乗れば半日で行ける距離だけど、日常に追われていれば、そんなに簡単に行ける距離でもありません。
その遠い遠い鹿屋と本部に行って、叔父が人生最後の時間を過ごした場所と、肉体の沈んでいる場所を訪ねて、ようやく、心の隙間が埋まったような・・・そんな感じ、と言ったらいいでしょうか。

自分たちの手で、鹿屋、平和の礎、そして本部湾から叔父の魂を故郷に連れ帰り、これでようやく叔父さんもひとりぼっちで寂しい思いをしなくて済むと思うと、心から本当にホッとしています。
posted by ぴろん at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ただいま

午前様ジャスト!!の時間に無事帰宅しました。
※2010年04月16日01:21 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・・・

おかげさまで、正義叔父慰霊の旅は無事終了しました。

3日目の朝は、ザーザー振りの雨。
あれま、これからこの旅一番のイベント、本部に行くというのに困ったな〜〜と思っていたら、途中宜野湾市あたりで雨も上がりまして。
本部では風こそ強かったものの、無事に大叔父終焉の地を訪ねることが出来ました。

で、本部を離れた直後に再びの雨。
これは、叔父の涙雨に違いない、と・・・


無事慰霊の旅を終えて、心が急に軽くなったような気がしています。
ここ数年胸につかえていたものが、スッと落ちたというか。

3日間、本当に良い旅が出来ました。
明日以降、詳しく旅の思い出を書き綴ります。
取りあえず無事に千葉まで帰れて、「皆様ただいま〜〜!!」ということで、取り急ぎ休みます。
明日から早速、私の日常再開ですので・・・(笑)
posted by ぴろん at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする